世の中には目立った生き方を好む人がいる。人に注目され、メディアに露出して、高額の収入を得て、平凡な一般市民に多大な影響力を誇示する。しかしそのような目立つ人間はほんの一握りでしかない。その証拠にテレビを付ければ毎日毎日同じ人間が繰り返し出てきては、同じような演出を繰り返す。その人間の個性が持つ影響力もあるのであろうが、ほとんどはその時代のはやりすたり差し障りのない炎上しないようなコメントを繰り返す。
政治家が政策活動費を日割りにするべきだと各党口をそろえて語っているが、その活動費をあなた方はいったいいつから貰っていたのですか、なぜ今頃降ってわいたかのように各党一斉に改革だと言っているのか訳が分からない。政治家の素質の底が見えた出来事だ。ああやっぱり、と今更失望もしないがもう少しまともな論議をどこかの党一党ぐらいはしてほしいものだ。今日は政治家の話をしたかったわけではない。
世の中には目立った生き方を好む人と、ひっそりと月見草の月影のように静かに目立たず生きている人の方が圧倒的に多いのだ。この人たちはおとなしく目立たないから、目立つことが嫌だから、あまり前には出たがらないから、一層目立たない。それに引き換えやたらと目立ちたがる人間は、なにかとマウントを取りたがり、人々を仕切りたがる。そして人が自分の思い通りにならなければ不機嫌になる。自分は選ばれた人間であり目立たない普通の人は自分の言うことを聞くことが当然とばかりに思っている。
だが世の中は目立たぬように生きている普通の人が圧倒的多数なのだ。メディアに出て天狗になっている一部の人は、普通の人たちをなめてはいけない。目立って派手に生きることだけが幸せに生きることだとは限らないからだ。ひっそりと月見草の月影の様に生きている人たちにも幸せに生きている人は大勢いる。彼らは目立たなくていいのだ。毎日毎日ひっそりと穏やかに、どちらかといえば社会的弱者かも知れないが、その弱者通しで手を取り合ってひっそりと生きている。かられには派手なスポットライトは絶対に当たらない。そしてお金も派手には持っていないので目立つ贅沢は絶対にしない。倹約節約、散財など絶対にしない。それでも彼らはひっそりと幸せに生きているのだ。誰よりも真剣に、他人に迷惑など絶対にかけない。他人にいやなことを絶対に言わない、他人からいやなことを言われても我慢する。
私はそんな目立たないがひっそりと平穏に生きている人たちの手助けがした、寄り添いたい。彼らは決して裏切らない。
場末の墓場には場末の人たちがやってくる。いくら場末であっても彼らは決して不幸ではない、行こうとする場所が墓場であっても、彼らは決して間違ってはいないし不幸ではない。
人が亡くなれば僧侶から戒名をもらい火葬して読経してもらいお墓に納骨する。
亡くなった人間は何もできないから家族や親族親しい人たちが段取りをして供養する。
何人集まるかなど問題ではない。故人の生前の立場で大勢の人間を集めたところで、あまり意味はない。本当に個人の死を悲しみ弔う近親者が10人~20人ぐらいあつまれば十分だし、個人は本当に幸せだと思う。
私が言いたいのは、葬儀は力ではないし、数でもない。数など少なくていいのだ。葬儀にかけるお金など少なくていいのだ。本当に悲しんでくれる身内の人間が10人~20人集ま出場充分華やかだ。そんな故人に故人の家族に葬式に寄り添て生きて行ければと思う。
私が思うのは故人の人生が生前どのような人生であったとしてもあまり幸せには関係ない。むしろ人は死んだあとの人生が大切なのだ。どのように葬られるのか。親近者が愛情をこめ供養してくれるのか。力のある人間は勝手にやればいい。私は弱いものの死後、その親近者の供養に寄り添いたいと思う。そうれができれば私も含め皆がソコソコ幸せになれる、亡くなった人もソコソコ幸せにあの世に召されることができる。私はそのように思う。親鸞の教えでは念仏を唱えるもの全員が極楽浄土に行けると説いている。
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